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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2011年11月19日

フランキー・ブラーの没落 アラン・シリトー

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

著作者:アラン シリトー

出版社:新潮社

価 格:500 円



アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』という新潮文庫の一冊は、しばらくは鞄の中に入れておいて損は無い一冊だ。
表題の小説はもちろんだが、この中に収められているすべての短編が、繰り返し読むに値する短編であるといっても過言ではない。
長距離走者の孤独は、できれば十代。高校生でも読んでいいとさえ思うが、ほかの短編には、三十代になっても、味わうことのできる、青春の残照、郷愁、人生の悲哀などがある。

シリトーを、怒れる作家、とレッテル貼りしたことで、どうしても反抗心の強い若者向けの文学という位置づけにしてしまっているのか。
けれど、下記のように書き残していた、フランキーブラーの没落という小説は、時代が過ぎ去っていく寂しさと、青春の終わり、青年期から大人になったものたちのなんともいえないせつなさを感じずにはいられず、読むたびに胸がつまる思いがするのだ。

2001.10.13のノートより(備忘録代わりに)

フランキー・ブラーの没落(「長距離走者の孤独」 アラン・シリトー 新潮文庫) 

手元にある短編集を再読。

作家となったアラン本人らしい主人公が、フランキーというガキ大将と遊んだ懐かしい日々、戦争という現実が少年世界に迫り、少年世界が終焉を迎えるまでを、生き生きと描いた作品。

数年が経ち、お互い大人となったフランキーとの再会はせつなさを感じさせる。

シリトーは、自らノッティンガムの工場群の中で育った経験から、底辺で生活する人々の生の声、心情を取り繕うことなく、正面を切って描くことによって、自分の文学スタイルを確立したと思うが、まさにこの作品を読むと彼が誰を代弁し、誰に対して怒りを顕にしているのかがよく伝わってくる。

フランキー・ブラーという社会的弱者(もちろん彼は弱者なんて思っていないが)に対する社会の扱いにまっこうから文句をつける主人公の言葉は、作家としてのシリトーの言葉に他ならない。  

Posted by なみログ at 00:36 | アラン・シリトー

2011年11月17日

アラン・シリトー

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

著作者:アラン シリトー

出版社:新潮社

価 格:500 円



アラン・シリトーという作家は、今ではほとんど読まれていないようだ。
というのも、文庫はわずかに長距離走者の孤独と、土曜の夜と日曜の朝が、新潮文庫に入っているが、イギリスの現代文学作家の紹介に、シリトーのことが紹介されているのも少なく、ファンとしては非常に残念なことになっている。
シリトーブームが到来するのを望む!


2001.4.19のノートから(備忘録代わりにここにも登録します)

土曜の午後(「長距離走者の孤独」 アラン・シリトー 新潮文庫)


しがない中年男の首吊り自殺を図る様子はそれが「真剣」であればあるほど、ぼくには「滑稽」にしか映らない。


首吊りに失敗し、おまわりに捕らえられるはめになった男はこう叫ぶ。「自分の命も自由にならねえなんて、結構な話じゃねえか」


おまわりは臆面もなく言う。「そのとおり自由にはならんのだ」


しかし、中年男は捕らえられたあと、病院の建物から飛び降り自殺を図って死ぬ。


少年は思う。

ぼくはとうとうやってのけたあの男をかわいそうに思ったが、またある意味ではうれしかった、なぜなら彼はポリ公やみんなに、はたしてそれが彼の命かどうかを証明してみせたからだ。

少年が思うように、中年男は「彼の命かどうかを証明してみせ」たかったのだろうか。

自分の命かどうかを証明してみせるために、命を落とすという精神はどんなものだろう。失敗した首吊り自殺にしても、狂言行為のはずだったとは言えないか。

「やれっ、やれっ」とは決して少年は言わなかったが、あきらかに少年の存在が彼を行為にまで及ばしている気がする。


中年男の切羽詰った状況は、狂言行為が許されることなく、実際行為にまで追い詰められていくさまをまざまざと感じる。彼に自由がなかったとすれば、「自殺は思いつきの狂言行為だった」と、<開き直ってみせることのできる自由がなかった>ことだとしか思えない。

※アラン・シリトーの描くイギリスのノッティンガムを想像して、筑豊の炭鉱町に似ていると誰かが書いた文章を読んだ。.  

Posted by なみログ at 23:26 | アラン・シリトー