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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2012年03月23日

猿ヶ島(太宰治)

晩年という作品集にある、猿ヶ島。

解説には、これは文学者の宿命に対する認識であり、文壇に対する風刺である。と書かれているけど、そういう風に読む者は果たしているのか、と思う。

白人世界から見た、日本人なのではないかと思うし、ロンドン博物館附属動物園から逃げ出した二匹の猿は、自由と独立を求めて逃げたと思うのだが。

短く、引き締まった物語の中に込められた、あるべき人間像の問い掛けは、鋭い。

それから、下記は8月12日の読書会後の追記だが、

私という猿と、彼という猿。果たして私だけが自?由を求めていたのだろうか。いいや、彼のほうがよっぽど自由を求?めていたのである。二匹目の猿である彼の深層心理を理解すること?で、閉塞感の漂う現代の我々に、いかに生きるかの示唆を与えてく?れはしないか。

末尾の、『しかも、一匹ではなかった。二匹である。』 という文章、二匹というのが強調されていると読むのが普通だろうが、あえて、二匹目の彼、を強調したと読めばどうだろうか。


  

Posted by なみログ at 23:32 | 太宰治

2012年03月15日

三笠山(車谷長吉)

忌中 (文春文庫)

忌中 (文春文庫)

著作者:車谷 長吉

出版社:文藝春秋

価 格:540 円



『忌中』という、文庫に入っている、三笠山という短編については、何度となく感想を述べてきたが、
改めて考えるに、あの物語、子供たち二人を殺し、夫婦は三笠山で車のなかで排気ガスによる心中をするという、
陰惨な話。
であるが、ではなぜ、彼らがあのような境遇に追い詰められていったか、もしくは、思い詰めたのか、という問いに対する答えを、明確にいいのべることは出来るだろうか?

車谷長吉は、作者の視点から文中にその答えともとれることを言葉で表している。
気になった読者はいるだるうか?もちろん作者の車谷長吉が、本当にその言葉に意味を込めたかどうかは分からない。
しかし、どんな小説でも、作者の意図にかかわらず読み手に読まれ、解釈される。

三笠山の小説を読み、このような不条理な陰惨な結末に、人間を追いやったもの、 それを、文中からさがしだすと、

『欲』

という言葉で、指摘されていた。(油断という言葉がかかれていると勘違いをしていました。)

父親の突然の死で大学進学をあきらめ、家業のサッシ屋を継ぎ、景気が拡大していて、結婚もし子ども二人できて幸せな生活を営んでいたのだが、あぶく景気が弾け、

ズルッズルッ、と経営が傾きはしめ、取引先のからの売掛金の回収ができず、借金を抱え、金策に神経をすり減らす毎日。

その元が、彼の『欲』からであったと書いてある 。
しかし、ここにかかれている欲は、決して、『欲』だのといえるものではなく、ささやかな『欲』だ。

もちろん、作者は『欲』が、かれの家族を一家心中まで追いやった、本当の原因であるといっているわけではない。


いつのまにか、この世の中で生き抜いていくことが自己責任という言葉で責任を個人に転化され、政治と世界競争のただ中に、庶民の経済生活もその影響下から逃れることもできず、うまく乗りきれなければ、『欲』だと言われるか、『欲』だったと、自ら思い悩むような世相。

一家心中まで追い詰められた、『三笠山』という小説のことを考えるたび、あぶく景気にちょっとのっただけのかれの人生と妻と子ども二人の命が、引き換えにされたかと思うと、
断罪されるべきは、このなんともいえない生きにくい世の中の方ではなかったかと思うし、車谷長吉が言いたかったのは、そういう世相への痛烈な批判ではなかったか、と思うのだ。

※以上はぼくの読み方だ。三笠山の小説を夫婦の純愛小説として読んだ人も多いだろうとも思う。   

Posted by なみログ at 09:21 | 車谷長吉

2012年03月11日

共喰い

芥川賞作の共喰いを読んだ。
文章は決して読みやすいほうではなく、物語を引っ張るストーリーも弱いために、読み進めるのがいくらか苦労した。
あらすじとしては、遠馬という主人公とその父、そして彼の彼女、生みの親と、現在の後妻。
の面々の織り成す日々。性と暴力。
中上健次の岬、枯木灘か。選者も触れていたが。
父親殺しという、重苦しく、暗いテーマを扱っているにもかかわらず、結末に、主人公らが笑みさえ浮かべているかのような感じになるのは、どういうわけであろうか。
  

Posted by なみログ at 17:51

2012年03月07日

眉山(太宰治)

グッド・バイ (新潮文庫)

グッド・バイ (新潮文庫)

著作者:太宰 治

出版社:新潮社

価 格:540 円



2002年9月に書いた独読日記から再掲。

『眉山(太宰治)』※グッド・バイに収録されている。

眉山とあだ名をつけられた飲み屋の女中。主人公である僕たちが飲み屋に行く度に、彼女はかいがいしく彼らの世話をするが、彼たちが呼びもしないのに、彼らの輪の中に入り、いつのまにか話しに加わってしまうことや、どこかピントのずれたその様子に、僕たちは彼女を嘲りの目でも見つめている。
物語の終り、久しぶりに飲み屋にいったというある人物と僕は出会い、眉山がいないことを聞かされるが、眉山が腎臓結核を患っていたこと、彼女がかいがいしく振舞う姿にどこかぎこちなさを感じたり、おしっこをもらしたことがあったということなどが、全て腎臓結核のせいであったということを知らされる。
短くて、本当にあった話を下敷きに書かれていると思う小説だが、文章のうまさもさることながら、最後になって眉山の病気の真相が伝えられたときの僕の心象など、さらっとした表現のなかにも胸を打つものがある。  

Posted by なみログ at 06:39 | 文学(日本)

2012年03月05日

蛇を踏む(川上弘美)

2002年12月に書いた独読日記より再掲。

蛇を踏む (文春文庫)

蛇を踏む (文春文庫)

著作者:川上 弘美

出版社:文藝春秋

価 格:440 円




現在旬の作家の小説を題材にしようということで、「蛇を踏む」を読書会で取り上げた。読書会の主旨に「たまには小説を読み込んでみよう」というのがあり、「読み込む」ことなしには会が成立しないのだが、果たしてどう「読み込めるか」。読み手が試されているような作品である。小説は必ずしも「読み込む」ことが必要かどうかという問いも含めて。

主人公のサナダさんは数珠屋さんの店番をする女性で独り暮らし、彼女の家に母と名乗る「蛇」が突然居座ることになるのだが。。

「蛇の世界は暖かいわよ〜」と蛇はサナダさんを自分の世界に引き込もうとするが、彼女は「蛇の世界」に惹き付けられるところもみせるが、拒絶感も抱いている。結局「蛇の世界なんてないのよ」ときっぱりと断言するのだが、「蛇の世界」とは一体何であろうか。
僕は「蛇の世界」というのは、もっと人(ここでは蛇も)と人が密接に付き合って生きていくような世界だと解釈し、「蛇の世界」ではないサナダさん自身のこれまでの生き方は、人づきあいについて距離感を保とうとしてきた生き方ではなかったかと思う。そういう自分を肯定して生きてきたが、だがもっと周りの人たちのように、べったりとした人と密接に触れ合っていくような、そんな自分になりたいとも思っている。
現代人の対人関係の距離感を描いているのかと。

「蛇の世界」に行くのか、「今の世界」にとどまるのか、といっちゃうと、ずっと以前のこの日記にも書いた(※ずっと下を参照)、村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」のパロディかということになるが(笑)、この作品の押しの弱さをあえてあげるとすれば、「蛇の世界」とそれに対する「今の世界」の、双方の提示の仕方に深みがないかなーと思う。ただ作者がそこまで考えて書いているかどうかは疑問。

ところでこの作品の中に出てくる蛇について読書会の参加者は、リアルな蛇を思い浮かべるということだったが、僕は「水玉模様やパステルカラー」の蛇をイメージした。怖くなんて全然ないと(笑)。作者のイメージは僕に近いんじゃないかと思うんだが。違うかなー。  

Posted by なみログ at 14:57 | 文学(日本)