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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2011年10月31日

沖で待つ (絲山 秋子)





数年前に読んだ、芥川賞受賞作の「沖で待つ」の感想を少し。

あらすじは、他のサイトにまかせるとして、読者の関心事のひとつは、
沖で待つ、という太っちゃんのあの詩がだれに向けて書き残されたものなのだろうか、ということである。

「俺は沖で待つ
 小さな船でおまえがやって来るのを
 俺は大船だ
 なにも怖ろしくないぞ」

この詩は死んだ太っちゃんが、妻の井口さんに書き残した詩のいくつかとともに一緒にノートに書き残されていた。

井口さんに書き残された詩を見せられた太っちゃんの同期だった及川(女性)が、沖で待つ、の詩を見たときに、自分に向かって書かれていると、果たして察したのかどうか。。

察したと思う。

というのがなみログの見解。

だれに向かって書かれたかということを知りたいというのもそうだが、それよりも、及川自身が察したかどうか、ということと、妻の井口さんはどう思ったか、というのが文学的に考えてみる価値のあるところで、

例えば、
及川が自分に書かれた詩だと察した上で、井口さんから、このノートどうしたらいいと思う?と訊かれたときに、迷うことなく、大切にしておけばいいじゃないですか、と言ったとすると、その神経は、相当図太いものがあると思うし、そういう意味でこの小説の肝とも感じる二人のやりとりを、こうもさりげなく書いてしまう作者の感覚は会話以上に敏感な感性だ。

新しい男女関係の形とか、同期愛などとキーワードを用いて批評するだけにとどめるには、もったいない小説だと思う。
  

Posted by なみログ at 18:26 | 文学(日本)

2011年10月30日

買った!神田古本まつり

神田古本まつりは楽しかった!

何の本を買ったかはすいません 見せれません。(笑)
  

Posted by なみログ at 16:35

2011年10月30日

神田古本まつり

神田古本まつりに来た
  

Posted by なみログ at 12:31

2011年10月28日

カラマーゾフ万歳!

たったいま 読了した。

カラマーゾフ万歳!

  

Posted by なみログ at 00:45 | ドストエフスキー

2011年10月27日

スメルジャコフという造形



ドストエフスキーは恐ろしい小説家である。

罪と罰、悪霊、カラマーゾフの兄弟と、続けて読んできて思うのは、登場人物の造形の力だ。

罪と罰、悪霊ともに、実際の事件に触発されモチーフにして書かれているが、それにしても、物語に出てくる人物造形の力は凄い。

リアルの人物以上に、より人間的に造形されているのではないかとさえ思う。

一人の人間の魂や性格、心の動きの深淵を、極端から極端までを披露することが、この小説家の真髄なのだろうと思う。

そして、カラマーゾフの兄弟で造られた「スメルジャコフ」という召使の男。

この男の出自、幼少期、青年期、恋愛、自殺に至るまでの全てを、この男の魂の声とともに理解しようとすることの試みが、ひょっとすると、カラマーゾフの兄弟を読むことの最上の挑戦すべき目標なのかもしれない。

※かつて村上春樹さんのサイトに『バー・スメルジャコフ』というコーナーがあったという。

  

Posted by なみログ at 12:30 | ドストエフスキー

2011年10月25日

カラマーゾフの兄弟 下巻 鋭意読書中!



家に帰ると、もっぱらカラマーゾフの兄弟の読書に没頭している。

スメルジャコフ。

映画にしたら、こいつ(あえてそういう!)の配役をだれにするかが、一番肝心だと思う。

カラマーゾフの兄弟は推理小説として非常に良く出来た話だというのが、読んでみて判った。

いまさらではあるがね^^

※ドストエフスキーの小説は、ぼくは、このカバーの方が好きだ。


  

Posted by なみログ at 18:37 | ドストエフスキー

2011年10月25日

亀山郁夫氏講演会 感想

10月22日(土)14時から行われた、亀山郁夫氏の講演の感想を少し。

会場は日比谷の日本プレスセンタービル10階会議場。首相会見や党首討論も行われるという会議室ということだった。

ドストエフスキーの『悪霊』は、ピョートルという革命家というか扇動家が、五人組を組織し、国家転覆を図ろうとするが、組織を抜けたいという一人をつるし上げ、処刑までするというもの。また、ピョートルが信望するニコライという若い男が、もう一人の主人公である。

とまあ、こんな内容なのだが、

話を聞いて、なるほどな、と思ったのは、

【使嗾】(しそう):そそのかすの意

という言葉だった。

そもそも悪霊とは何か、悪霊的な行為とは何か、ということに対して、僕は明確な答えを持てぬまま読んでいたが、一つの解釈として、【使嗾】という行為が悪霊的ではないかという考え方は理解できる。
もちろん他人の命を奪う行為にまでいたるという結果からして、というとではあろう。
ピョートルの悪霊性は、<自らの手を汚さずに殺人を企てようとした>という行為一点に尽きるのかどうか。

それから、質問者から、素晴らしい質問が出た。

『スタヴローギン(=ニコライ)にも悪霊が入っていたのか。スタヴローギン自体が悪霊ではなかったか』

という質問だった。答えは明白なようで、案外難しい問いだなと思った。

『スタヴローギンは悪霊』そのものだと、僕自身は思う。かれか、もしくは遡るとステパン氏が、悪霊の萌芽する種を植えたのではないか、と思われる記述もあるし、そう読んでいる人も多いと思う。

それ自体が『ロシア的』だといってしまっては、あまりにも普遍化しすぎているし、そこに帰結してしまっては、僕自身逃げてしまうことになるので、逃げることなく考えてみたい。







  

Posted by なみログ at 09:53 | ドストエフスキー

2011年10月23日

水上勉 文藝別冊を買った

2000年に発行された水上勉を特集したムック本を買った。

東日本大震災で改めて人間と風土への関心が高まっているが、水上勉が生きていたら何を感じて何を語るだろうかと、思わずにはいられない。
  

Posted by なみログ at 21:31 | 水上勉

2011年10月23日

カラマーゾフ 中巻 読了!

カラマーゾフ 中巻 読了した。

ドミートリーはフョードルを殺していないと言っている。

ではだれが??

スメルジャコフなのか?
やっぱりドミートリーなのか?

下巻に続く。


  

Posted by なみログ at 17:54 | ドストエフスキー

2011年10月22日

亀山郁夫氏講演会に行きます

今日は、念願の、亀山郁夫氏の講演会に行く。

日本記者クラブ(日本プレスセンタービル)10階ホールで開催される、ドストエフスキー『悪霊』の講演会だ。

講演の内容は、このほんファンブログにも投稿しますので、お楽しみに。
  

Posted by なみログ at 10:41 | ドストエフスキー

2011年10月22日

猿の惑星

猿の惑星 創世記 を観た感想

大雑把にいうと恐怖映画としては面白かった。

ストーリー展開も、CGもよく出来ていて、猿(チンパンジー)というか、獣の怖ろしさが身に迫った。

現代社会や未来への警告の意図が伝わったかというと そこまで真に迫るものではなかった。

個人的な見解であるが、不満だったのは、主人公の個人的な問題に振り回される形で騒動が始まり、人間社会すべてが脅かされたわりには、主人公に責任の呵責がなく、回りもヒューマニズムの問題で片付けてしまうという、矮少さ。

アメリカ映画が簡単にヒューマニズムに帰結させてしまうのは、滑稽であり、呆れる。

『馬鹿な猿め』と叫びながら落ちていく黒人の言葉の真意が何にむかっているのかは、ぼくなりに解釈してみたいとは思った。

■猿の惑星 ウィキペディア

  

Posted by なみログ at 02:36 | 映画

2011年10月21日

新幹線で大阪から東京へ

本と関係ない話で、

今日は 大阪で企画したセミナーだった。

僕もトークセッションで司会。

参加者が社長さん、常務さんが多く、真剣に聞いてもらった。

いま新幹線で東京へ帰ってる。

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を読みながら(笑)
  

Posted by なみログ at 19:44

2011年10月21日

人はパンのみに生きるにあらず

なみログの独読日記ファンの皆さん。おはようございます!

今朝はいまから大阪へ出張です。
明日は、午後から有楽町でドストエフスキーの翻訳者亀山氏の講演会があるので、
日帰りで東京へ戻ってくる予定です。
ま、大阪出張は、できるだけ日帰り出張が基本ではありますがね^^

さ、て。

ドストエフスキーの、カラマーゾフの兄弟。
上巻の最後の章は、あまりにも有名な大審問官の話である。

二男のイワンが、三男のアリョーシャに自作の物語を語るという、<劇中劇>のしかけになっている。

そのなかで、『人はパンのみに生きるにあらず』という有名な言葉というか、思想というか、哲学というか、その言葉につながる話が語られるのだが、(聖書に出てくるのかな。ぼくは聖書はわかりません)

この言葉の解釈は、ちょっと調べただけでもいくつかあるようだ。

<パン>=<生きるための食糧> 『人は食が満たされれば生きていけるというものではない』

という風に解釈すると、文化や芸術、精神的なものの豊かさなども大事ですよ。という意味に受け取れる。

<パン>=<お金> 『人は金だけで生きていけるものではない』

これも、上の解釈と根底では同じことだが、このように解釈できる。


多くの人は、この言葉をどう読み、どう納得しているのか、と思った。納得しないという意見があればそれも含め。  

Posted by なみログ at 06:13 | ドストエフスキー

2011年10月20日

神秘的な客 ゾシマ長老の話より

ゾシマ長老の話に、神秘的な客の話がある。

朝から紹介するには重い話なので、内容の紹介はあとにするが、非常に興味深い。

芸術は、<ときに人を脅かすもの>、ということを、二十代のときにある人から教えられ、
そのとき以来、芸術を、美しいとか、きれいだとか、の尺度だけではなく芸術を捉えようと
しているが、

ドストエフスキーの書く、小説の中には、読む側の価値感を脅かされるものがある。

かれは(=ドストエフスキー)は、自らを、ディテールの小説家であると称したらしい。

何についてディテールの小説家であるか、という自問には、

『私は魂のディテールを描いている』

と言っている。(埴谷雄高の評論本によると)


まさにかれの書く小説の多くは、<芸術>と呼ぶべきものではないかと思う。

  

Posted by なみログ at 08:47 | ドストエフスキー

2011年10月19日

ゾシマ長老の物語

いま、ゾシマ長老の物語のところを読んでます。

大いに考えさせられる。
  

Posted by なみログ at 22:51 | ドストエフスキー

2011年10月19日

カラマーゾフの兄弟 中巻

昨夜から、カラマーゾフの兄弟の中巻に進んでいる。

スメルジャコフという、召使の男。

気になる人物だ。果たしてこの男。

何を考え、何をするのか。目が離せない人物の一人だ。  

Posted by なみログ at 08:47 | ドストエフスキー

2011年10月18日

亀山郁夫氏の『悪霊』講演会のお知らせ


ドストエフスキーの『悪霊』などの翻訳者である、亀山郁夫氏の講演会が、
今週土曜日にある。

フフフっ。

すでに申込み済み。

楽しみだあ!

http://www.kotensinyaku.jp/blog/2011/09/post-114.html

〜〜以下、Webサイトから転載〜〜

日時: 2011年10月22日(土)14:00〜16:00
会場: 日本記者クラブ(日本プレスセンタービル)10階ホール
千代田区内幸町2−2−1
アクセス: 東京メトロ千代田線・日比谷線・丸ノ内線 霞ヶ関駅、都営地下鉄 三田線 内幸町駅、JR 新橋駅 日比谷口(SL広場)より徒歩約10分
参加費: 会員 2,000円(日ロの友好団体の会員同額)/学生 2,000円/一般 2,500円


【お申し込み方法】
会員/学生/一般、郵便番号・住所・氏名・電話・FAX・E-mail等を明記の上、FAX、E-mail、または郵便でお申し込みください。 
満員になり次第締め切りとさせていただきますので、お早めにお申し込みください。
【主催】
NPO 日ロ交流協会 (〒106‐0041 港区麻布台3−4−14 -401)
〈TEL〉03-5563-0626 〈FAX〉03-5563-0752 〈E-mail〉nichiro(アットマーク)nichiro.org



※しかし、Webではまだ申込み続いているけど満席じゃないんかい!と突っ込みたくなる。
行ったら行ったで満席かもしれんけどね。よくあるパターン。

  

Posted by なみログ at 17:59 | ドストエフスキー

2011年10月17日

ドストエフスキイの生活 (小林秀雄)


カラマーゾフの上巻を読み終えた。

悪霊とくらべると、読みやすいし、物語となるモチーフも興味深い。
ストーリーテーラーであるばかりか、やはり一級のジャーナリストだなと、思う。
社会背景と生活の変化、人心の変化を適切に捉え、明らかにし、分析する。

とまあカラマーゾフの印象はまたにして、


小林秀雄氏のこの本は買ったのではなく、戴いたものである。

かれこれ十年近くなるだろうか。


ようやく頁をめくるときがきたようだ。

いまさらながらという声は、ごもっともなことである。



  

Posted by なみログ at 23:39 | 評論

2011年10月17日

赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)






この二、三年で一番面白かった本が、赤目四十八瀧心中未遂だ。



かなり面白い。



東京の広告代理店の第一線で活躍していた私が、仕事を辞め、身を隠すように関西の尼崎のある路地に逃げ込み、そこでひっそりと暮らす日々を描いた小説。



ひっそりと、とは書いたが、小説でも書かれているが、私には帰るところがあり、その路地にとって、私はいわば傍観者である。

そして、私は意図をしてその路地にひっそりと住むことを決意しているが、その路地に住むほかの人々は毎日の生活に観念的な解釈はもちろんない。目の前の一日一日をまっくろになって生きるだけだ。



そんな傍観者である私にとって、その路地はときに手厳しくあたる。

子供もそうだ。



解説にも書いてあるとおり、路地の子供の立場。秀逸だ。本当によく書けている。



そして、最後の章。



アマ(尼崎)を離れてから4年が過ぎ、大阪への出張の折に、路地を再訪するのだが、そこにはもう知り合いのおばさんの店はなく駐車場と化し、身を隠すように住んでいたアパートの二階にはだれも住んでおらず、私が住んでいた部屋には南京錠が掛っている。





この章はあらためて読んでも、つらいなあ。

いつかきた青春の終わりを見せられているようで。(苦笑)



読んでいない人はぜひ。



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Posted by なみログ at 18:39 | 車谷長吉

2011年10月17日

辺境からのろしを上げる

〜facebookのノートに書きとめておいた雑文より〜


長崎は小説家を多く輩出している県で、有名どころでは、村上龍を筆頭に、佐藤正午、 青来有一、吉田修一、古いところでは、野呂邦暢、林京子、佐多稲子らが出ている。



作品の舞台が長崎となると、それは数え切れないくらいあって、遠藤周作の「沈黙」も、そのなかで頭に思い浮かべることのできる有名な作品だろう。



先日、佐藤正午氏の「リボルバー」という文庫小説が、新しい装丁で書店に並んでいるのをみた。



たしかこの小説は、沢田研二が出て映画化されたものだったと思う。



なんかなつかしいな。と思ったりした。



話は、元にもどるが、東京から遠く離れた北海道や沖縄の現状がどのような状況になっているかを考えると、この国がどうなっているのかよく判るということをいっているのを聞いたことがある。
辺境の地にこそ<国の現実>が<むき出しに現れている>ということなのか。




長崎もしかり、佐賀もしかり。



インターネットの世界だって、そうかもしれないな、と思う。

インターネットの世界が<地方の時代の到来>などといっていた幻想が消えてから久しい。


佐賀からどう仕掛けていくか。



以前、自らのことを「昭和岸壁派」といい、<辺境>から人間生活を考える小説家もいた。

本来であれば、今のような時代こそ、日本の端っこから、ケータイ小説でもなんでもいいので、<のろしを上げていかないとならないのだ>と思ったりするのだが。



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Posted by なみログ at 18:32