2011年10月31日
沖で待つ (絲山 秋子)

数年前に読んだ、芥川賞受賞作の「沖で待つ」の感想を少し。
あらすじは、他のサイトにまかせるとして、読者の関心事のひとつは、
沖で待つ、という太っちゃんのあの詩がだれに向けて書き残されたものなのだろうか、ということである。
「俺は沖で待つ
小さな船でおまえがやって来るのを
俺は大船だ
なにも怖ろしくないぞ」
この詩は死んだ太っちゃんが、妻の井口さんに書き残した詩のいくつかとともに一緒にノートに書き残されていた。
井口さんに書き残された詩を見せられた太っちゃんの同期だった及川(女性)が、沖で待つ、の詩を見たときに、自分に向かって書かれていると、果たして察したのかどうか。。
察したと思う。
というのがなみログの見解。
だれに向かって書かれたかということを知りたいというのもそうだが、それよりも、及川自身が察したかどうか、ということと、妻の井口さんはどう思ったか、というのが文学的に考えてみる価値のあるところで、
例えば、
及川が自分に書かれた詩だと察した上で、井口さんから、このノートどうしたらいいと思う?と訊かれたときに、迷うことなく、大切にしておけばいいじゃないですか、と言ったとすると、その神経は、相当図太いものがあると思うし、そういう意味でこの小説の肝とも感じる二人のやりとりを、こうもさりげなく書いてしまう作者の感覚は会話以上に敏感な感性だ。
新しい男女関係の形とか、同期愛などとキーワードを用いて批評するだけにとどめるには、もったいない小説だと思う。
Posted by なみログ at 18:26 | 文学(日本)