2012年03月23日
猿ヶ島(太宰治)
晩年という作品集にある、猿ヶ島。
解説には、これは文学者の宿命に対する認識であり、文壇に対する風刺である。と書かれているけど、そういう風に読む者は果たしているのか、と思う。
白人世界から見た、日本人なのではないかと思うし、ロンドン博物館附属動物園から逃げ出した二匹の猿は、自由と独立を求めて逃げたと思うのだが。
短く、引き締まった物語の中に込められた、あるべき人間像の問い掛けは、鋭い。
それから、下記は8月12日の読書会後の追記だが、
私という猿と、彼という猿。果たして私だけが自?由を求めていたのだろうか。いいや、彼のほうがよっぽど自由を求?めていたのである。二匹目の猿である彼の深層心理を理解すること?で、閉塞感の漂う現代の我々に、いかに生きるかの示唆を与えてく?れはしないか。
末尾の、『しかも、一匹ではなかった。二匹である。』 という文章、二匹というのが強調されていると読むのが普通だろうが、あえて、二匹目の彼、を強調したと読めばどうだろうか。
解説には、これは文学者の宿命に対する認識であり、文壇に対する風刺である。と書かれているけど、そういう風に読む者は果たしているのか、と思う。
白人世界から見た、日本人なのではないかと思うし、ロンドン博物館附属動物園から逃げ出した二匹の猿は、自由と独立を求めて逃げたと思うのだが。
短く、引き締まった物語の中に込められた、あるべき人間像の問い掛けは、鋭い。
それから、下記は8月12日の読書会後の追記だが、
私という猿と、彼という猿。果たして私だけが自?由を求めていたのだろうか。いいや、彼のほうがよっぽど自由を求?めていたのである。二匹目の猿である彼の深層心理を理解すること?で、閉塞感の漂う現代の我々に、いかに生きるかの示唆を与えてく?れはしないか。
末尾の、『しかも、一匹ではなかった。二匹である。』 という文章、二匹というのが強調されていると読むのが普通だろうが、あえて、二匹目の彼、を強調したと読めばどうだろうか。
