2012年03月15日
三笠山(車谷長吉)
![]() | 忌中 (文春文庫)著作者:車谷 長吉 出版社:文藝春秋 価 格:540 円 |
『忌中』という、文庫に入っている、三笠山という短編については、何度となく感想を述べてきたが、
改めて考えるに、あの物語、子供たち二人を殺し、夫婦は三笠山で車のなかで排気ガスによる心中をするという、
陰惨な話。
であるが、ではなぜ、彼らがあのような境遇に追い詰められていったか、もしくは、思い詰めたのか、という問いに対する答えを、明確にいいのべることは出来るだろうか?
車谷長吉は、作者の視点から文中にその答えともとれることを言葉で表している。
気になった読者はいるだるうか?もちろん作者の車谷長吉が、本当にその言葉に意味を込めたかどうかは分からない。
しかし、どんな小説でも、作者の意図にかかわらず読み手に読まれ、解釈される。
三笠山の小説を読み、このような不条理な陰惨な結末に、人間を追いやったもの、 それを、文中からさがしだすと、
『欲』
という言葉で、指摘されていた。(油断という言葉がかかれていると勘違いをしていました。)
父親の突然の死で大学進学をあきらめ、家業のサッシ屋を継ぎ、景気が拡大していて、結婚もし子ども二人できて幸せな生活を営んでいたのだが、あぶく景気が弾け、
ズルッズルッ、と経営が傾きはしめ、取引先のからの売掛金の回収ができず、借金を抱え、金策に神経をすり減らす毎日。
その元が、彼の『欲』からであったと書いてある 。
しかし、ここにかかれている欲は、決して、『欲』だのといえるものではなく、ささやかな『欲』だ。
もちろん、作者は『欲』が、かれの家族を一家心中まで追いやった、本当の原因であるといっているわけではない。
いつのまにか、この世の中で生き抜いていくことが自己責任という言葉で責任を個人に転化され、政治と世界競争のただ中に、庶民の経済生活もその影響下から逃れることもできず、うまく乗りきれなければ、『欲』だと言われるか、『欲』だったと、自ら思い悩むような世相。
一家心中まで追い詰められた、『三笠山』という小説のことを考えるたび、あぶく景気にちょっとのっただけのかれの人生と妻と子ども二人の命が、引き換えにされたかと思うと、
断罪されるべきは、このなんともいえない生きにくい世の中の方ではなかったかと思うし、車谷長吉が言いたかったのは、そういう世相への痛烈な批判ではなかったか、と思うのだ。
※以上はぼくの読み方だ。三笠山の小説を夫婦の純愛小説として読んだ人も多いだろうとも思う。
Posted by なみログ at 09:21 | 車谷長吉