2011年11月17日

アラン・シリトー

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

長距離走者の孤独 (新潮文庫)

著作者:アラン シリトー

出版社:新潮社

価 格:500 円



アラン・シリトーという作家は、今ではほとんど読まれていないようだ。
というのも、文庫はわずかに長距離走者の孤独と、土曜の夜と日曜の朝が、新潮文庫に入っているが、イギリスの現代文学作家の紹介に、シリトーのことが紹介されているのも少なく、ファンとしては非常に残念なことになっている。
シリトーブームが到来するのを望む!


2001.4.19のノートから(備忘録代わりにここにも登録します)

土曜の午後(「長距離走者の孤独」 アラン・シリトー 新潮文庫)


しがない中年男の首吊り自殺を図る様子はそれが「真剣」であればあるほど、ぼくには「滑稽」にしか映らない。


首吊りに失敗し、おまわりに捕らえられるはめになった男はこう叫ぶ。「自分の命も自由にならねえなんて、結構な話じゃねえか」


おまわりは臆面もなく言う。「そのとおり自由にはならんのだ」


しかし、中年男は捕らえられたあと、病院の建物から飛び降り自殺を図って死ぬ。


少年は思う。

ぼくはとうとうやってのけたあの男をかわいそうに思ったが、またある意味ではうれしかった、なぜなら彼はポリ公やみんなに、はたしてそれが彼の命かどうかを証明してみせたからだ。

少年が思うように、中年男は「彼の命かどうかを証明してみせ」たかったのだろうか。

自分の命かどうかを証明してみせるために、命を落とすという精神はどんなものだろう。失敗した首吊り自殺にしても、狂言行為のはずだったとは言えないか。

「やれっ、やれっ」とは決して少年は言わなかったが、あきらかに少年の存在が彼を行為にまで及ばしている気がする。


中年男の切羽詰った状況は、狂言行為が許されることなく、実際行為にまで追い詰められていくさまをまざまざと感じる。彼に自由がなかったとすれば、「自殺は思いつきの狂言行為だった」と、<開き直ってみせることのできる自由がなかった>ことだとしか思えない。

※アラン・シリトーの描くイギリスのノッティンガムを想像して、筑豊の炭鉱町に似ていると誰かが書いた文章を読んだ。.


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Posted by なみログ at 23:26 | アラン・シリトー