2012年02月06日
文学と情報知識
![]() | 超・殺人事件―推理作家の苦悩 (新潮文庫)著作者:東野 圭吾 出版社:新潮社 価 格:460 円 |
東野圭吾氏の、本書。
タイトルおよび表紙から得られる印象と違い、いくつかの話は、とても考えさせるものだった。
とくに最後の、超読書機械殺人事件と、超長編小説殺人事件
この二つは深い。
超読書機械殺人事件は、まさに今のネットに転がる一部の批評文(あらすじ、要約文も)とそれを見る読者を予言したかのような内容。
ショヒョックスなる、書評作成機械を販売するセールスマン。そしてそれを購入する書評家たち。
※あらすじ抽出機能や、要約機能はショヒョックスの基本機能として装備されている。さらに書評まで機械がしてくれるという。
※こうやって書評ブログなるものを書いている僕自身も、素人とはいえ、東野圭吾氏が指摘する書評家たちの一人であるのか。
ひとたびショヒョックスに小説を読み込ませると、辛口やヨイショなど書評の味があり、それを選択するとその味の書評が出来上がるというもの。
ショヒョックスの次は、物語を作る創作用の機械が出てきて、そこには物語を実作する人間も、実際に本を読んで書評を書く人間もいなくなるという話。
おー怖。
それから、超長編小説殺人事件も、興味深い。中でも興味深いなあと思ったのは、小説の内容に、情報小説という、読者が詳しく知らない業界の話や裏話を盛り込み、情報をほしがっている読者向けに、小説を水増しするというもの。あまりその部分が長すぎると、小説の筋とはかけ離れているので間延びした形になるが、それでも読者がそのような情報小説部分を望んでいるというニーズもあるということ。
いやいや、これは凄い話だ。確かに、主に経済小説やミステリーはそのような情報小説的な要素が多く入ることの余地のあるジャンルだろうが、そういうことが一つのテクニックとして確立しているというのは。もちろんなんとなくは知っていたし、業界ネタを書くといいという新人賞獲得のノウハウ本もあったが。
文学と情報知識は、ある意味全く関係の無いことのように感じるが、どんどん文学が情報知識芸術化しているような印象を持つ。※そうなると果たして芸術なのかという問題も出てくる。小説=情報知識コンテンツという言い方が妥当か。
文学作品は、もちろん情報知識コンテンツではないのだけれどね。
たとえば、もしドラなんかも、情報小説だろう。(ということであれば映画は失敗すべくして失敗したということになる。)情報はインターネットやビジネス書で読めばいい話で、映画で見るものではないのだから。
そもそもあらすじや要約を知っていることと文学作品を読んだこととは何の関係性もあるはずはなく、ましてや、文学作品を読むということは、少なからず生き方や考え方になんらかしらの作用が働くものであり、ときに文学作品は読者の生き方により良いヒントを与えるものである。